存在という意味で我々は等しい
朝日も寝ぼけた明けがたに、私は野原で犬を野放しにしただひたすらにその動きをじっと追っていた。首輪がついていたからいいものの首輪がついていなかったとしたら犬、お前は野犬、野犬なのだ。荒ぶる野犬たちが蔓延る野犬の世界で貴様が生きていけると思っているとしたら大間違いだ。貴様は私がいなければ、この野原を縄張りにしている野犬にとっくのとうに噛み殺されているところなのだ。そんなふうに私はとても愛くるしい笑顔でトコトコとこちらに近寄ってくるその毛むくじゃらのことを憂いだ。この犬が野犬として成功を収める険しさ、そして難しさを。
この野原は住宅と住宅の間にあるぽかんとした空間で、そこには一列に並んだ木々があるだけだった。まだ温度をもたない朝日もどんよりと辺り一体を照らすだけで、そこで熱を持つものは私と犬と遠くに聞こえる車の音だけである。木を除けばただ一辺倒に草むらが続く見栄えのない景色が広がる。しかしその中にうごめくものがいた。それは体の一部分を細かく動かすだけでただじっとその場に留まっていた二羽の兎である。私は彼らのことをよく知っている。犬とここに来ると、極まれに彼らと出くわすからだった。ただ、ここ最近は彼らを見かけなかったためどこか別の場所へと移り住んだのかと勝手に思っていた。
私は彼らを見つけるやいなや近づくために歩みを進めた。いつものアレをするためである。それは自分と兎たちと犬を直線状に並ぶような位置関係にした後、犬をこちらに呼ぶことで向かって来る途中に犬と兎たちが出会い、そして戯れるのを見るというものである。ただしそこで実際に起こることはというといつも互いが互いに干渉せず、それぞれがそれぞれをよそよそしく避けながらその場で全員がうろうろとするだけである。もしかしたら何かが起こるのではないかという漠然とした期待を持って行うのだがこれまで何か起きたためしはない。実質そこで起こっていることは、ただ人と犬と兎が同じ場でうろうろしているだけなのである。ディズニーの世界のように動物たちが仲良くお喋りを始めるなんてことは起こらないのである。
予想通りの不干渉に飽きつつあった私は、持っていた紐を犬の首輪に取り付け、兎たちに別れを告げることにした。その時である、十メートルほど離れたところに歩く男がいることに気づいた。同時に彼の上半身の衣類に違和感を感じ取った。妙に彼の上半身が肌色で構成されていたからだ。よくよく見ると彼はTシャツのお腹部分の裾をめくり上げ、ぷっくりと膨れた腹の上部分に引っ掛けることで胸からズボンまでの間の肌を大胆に露出していた。私たちが進んでいる方向が彼と同じであったため、歩みを進めながらも視界の隅にいる彼を見ないわけにはいかなかった。彼は近くに住む住人なのだろうか。そんなことを思っていると彼が少し奥まった場所にある、低身長の木々が立ち並ぶ場所へと近づいて行った。彼は何者でこれから何をしようとしているのだろうか。こちらからかろうじて見える後頭部に視線を向けていると、彼はついに私に気づいた。そして気づくやいなや、その野太い声で私に向かって奇声を発した。私は悟った。彼は小便をしようとしていたのだと。彼は奇声を発することで私と犬を威嚇してきたのだった。
家路へと歩む足が振動を身体へと伝えるたびに、腹丸出しのオヤジが立ち小便を私に見られ、その恥ずかしさのあまり激怒し奇声を発したというこの世の寂しく切ない部分について、この犬もあの兎たちもまるで知る由が無いのだという気持ちが立ち上がっては消えていく。私がもし人でない何かであったとしたら、あのオヤジが小便中に激怒したという現象も、何か別の似たような現象と同等に認識されるだけなのだろうか。あのオヤジも私も犬も兎も、お互いがお互いに何もかも違うけれど、皆同じように生きているという点で違いはないのだ。
最近実際にあったこと
エリザベス。霞がかった意識の中、今思えばそれはただの文字列とだけしか、そのときのぼくは理解していなかったのかもしれない。
自分がいつの間にか眠っていたことに静かな驚きを覚えつつも、ぼくはその予想し得なかった心地よい目覚めに限りない充足を感じていた。携帯電話があるはずの場所へと手を伸ばす。柔らかい布団が持つ生地の感触と温度は、裸のだれかと肌を寄せ合うときの予想より冷たい温かさを思い出させた。指先が携帯電話を見つけ出し、ぼくの目の前に着信履歴を広げる。エリザベス。少し前のあやふやな世界で見た文字列がそこにはあった。いったいこれはだれなのだろうか。そんなことを思っていると、まるでぼくがその着信に今しがた気づいたことを知ったかのように携帯電話が揺れだし、少し経って止まった。それはまたもやエリザベスだった。女性の名前である。しかしぼくにはそのような名前の友人はいない。いや。いると言えばいる。しかし彼女はエリザベスという名を通名として使っていただけであり、そもそも別の国にいるぼくの番号など知るわけがない。そんなことを考えていてハッとした。白人の老婆だ。数週間前、ぼくはひょんなことから白人の老婆と連絡先を交換したのだった。
そのときぼくは初めて訪れる自分が住む市の施設にいた。その施設は図書館や体育館、市役所など様々な施設が集められた複合施設だ。ぼくは施設内を散策しながらその施設の規模感や混雑具合に、これまでこの国であまり感じたことのない親近感を感じていた。老人の憩いの場になっている小さなカフェの価格帯はとても安価であり、体育館やジム、その他の娯楽で汗を流す人々の笑顔が印象的だった。
この場所が素晴らしい場所であるということを確かめるように、ぼくは普段は気にもとめない掲示板のチラシまでもくまなく目を通そうと掲示板の前に立っていたときだった。急に近くに居たエリザベスが掲示板のイベントチラシについて、ぼくに話しかけてきたのだった。
「このイベントはいいわよ絶対」
「こういうかわいそうな若者が多いのよ最近」
ぼくがうんうんとうなづけばうなづくほどにエリザベスの話の勢いは加速する。ついには自分の身の上話が始まった。彼女は生まれてからこれまで様々なところに住んだことがあるということだった。同時にそれぞれの住んできた場所に行くことをぼくに強く勧めてきた。最終的に、もっと私と話したいなら日を変えてカフェでも行きましょうと連絡先交換を促されたのだった。
ベッドの上でぼくは考えていた。もしかしてあのときのカフェに行くという約束。エリザベスは老婆だけど、ぼくとカフェデートをしたいのかもしれない。そのための着信なのかもしれない。気がつくと、先ほどまでここにあったはずの限りない充足感はどこかに消え去ってしまっていた。エリザベスはぼくの左手の指輪に気づいていなかったのだろうか。付き合ってもいないのにぼくはこれから老婆をカフェでがっかりさせなければいけないのだろうか。
ただ、なんにしても着信を無視することはできない。そう思ったぼくは勇気を出してエリザベスに電話をかけることにした。
「もしもし。こんにちは、エリザベス。着信あったけど、どうかしましたか」
ぼくがそう言うとすぐさまエリザベスの声が聞こえて来た。
「不思議に思ってたのよ。私の携帯電話に知らない人の名前と連絡先が登録されてて。だから思い切ってかけてみたのよ。あなた。ところで誰なの」
ピザ
おい。なに食ってんだよ
なんでもいいだろ。話しかけんな今
ピザだろ。ピザ食ってんだろ
わかってんじゃねえかよ。じゃあ聞くなよ
やっぱ、うまいのかよ
なんでおまえにいちいちそんなこと報告しなきゃいけねえんだよ
おい。それくらい教えてくれたっていいだろ
わかったよ。すげーまずいわ。じゃあな
おい。嘘言うなよ
なんでおれが嘘言うんだよ。まずいんだよ。だからさっさと帰れよ
うまそうに食ってるだろ。あとどう見てもそれうまそうなやつだろ
イケメンっているだろ?
どしたんだよ急に
これ、あれだよ。見た目よくても性格最悪なイケメンみたいなもんだから。見た目よくても内面がクソ過ぎて実際食べたらクソマズだから
おい、待てよ。それ、おれへのあてつけかよ
…(なんだよこいつブサイクのくせして。調子こき村出身かよ)
おい。なんとか言えよ
おまえ、ピザ欲しいんだろ
えっ。くれるのか?
ここに電話しろよ
なんだよこの番号
いいから電話しろよ。そしたらうまいピザ食べれるから
マジかよ。絶対だからな
…
もしもし。えっ。いや、あのまた電話します。はい。いえ。はい。ありがとうございます。
…
おい。この野郎。これピザハットの電話番号じゃないかよ
そうだよ。おまえうまいピザ食べたいんだろ。おれのピザ激マズだからちゃんとした店のやつ頼めばいいと思って教えたんだよ
時間かかるだろ。おれは今すぐに食べたいんだよ。あとおまえの買ったピザの箱もピザハットじゃねえかよ。なんなんだよ。ちゃんとしたうまいやつじゃねえかよ
まあ、ちゃんとしたうまいやつだよ実は
とうとう尻尾を出しやがったなこの野郎。だってもうニオイが間違いないよねこれ。もう確実にちゃんとしたうまいピザのやつのニオイだよこれ
というかおれはおまえのためを思って隠して来たけど、実はピザがおまえにだけは食べられたくないって言ってたんだよ
なんだよ。ピザが意思を持ってるってことかよ
おまえ、実際ピザにすごい嫌われてるわ
おれはピザ界の嫌われ者だったのかよ。おれピザになにしたんだよ
メッセージ性強いやつ
おれ、ちょっとお前に言わなければいけないことがあるわ。今までずっと我慢して来たけど、もう無理だから言うわ
なんだよ。すげー聞くの嫌だわ
お前、前の誕生日んときヘッドフォンくれただろ
うん。いいだろあれ。最新のやつで値もまあまあ張るやつだぞ
あれって「お前は耳でも塞いで会話には入ってくんな」って意味だろ
いや違うし。どんだけだよ。どういう受けとりかたしたらそんなふうに思うんだよ
実際、おれとおまえと他のやつとかとグループで話すとき「あっ今すごい会話で置いてけぼりくらってるわ」って思う瞬間あるもん
いや気のせいだろ。なんだよそれ
一昨年もそうだよ。石鹸くれただろ
うん
あれはもう確実にあれだわ。「体臭くせえから洗え。このクソ野郎」って意味だろ
それもどんだけだよ。だとしたら、おれどんだけメッセージ性強いやつなんだよ。常に贈り物に裏の意味を含ませてんのかよ。どんだけ陰湿なんだよ
さっきティッシュくれただろ
うん
あれもだろ。最悪だわ
いやだって食ってたときおまえ手汚れてただろ
あのティッシュ、2枚だったんだよ
どういうことだよ。1枚じゃ足りないかもしれないからだろ。おれの優しさだろ
いや、あれはもうあれだわ。余った1枚でおれの汚れたなにかをティッシュで拭き取れってことだろ