きょうのできごと

ともだちになってください

知らない名前の雑草の茎にある線

 地面から雑草をむしり取り茎を見ると何本もの線を見つけることが出来る。近ごろ私は、名前は知らないがよく見たことのあるこれらの雑草の、茎にある線のことを考えることが多くなった。なぜ茎にあるこれらの線のことを考えるようになったかはよく分からない。もう死ぬのかもしれない。私が死んだら、雑草の茎にある線のことを日に日に考えることが多くなり、最終的には雑草の茎にある線が数えても数えても数え終わらないと言って気が狂っていたようだったとでも言っておいて欲しい。人々が雑草の茎の線を見た際、私という存在がこの世界にあったのだということを思い出すきっかけとなるだろう。また戒名もそれにちなんだものにして頂ければ尚良いのではないだろうかと思う。

 しかし、よくよく私の思考を紐解き、私がなぜそのようなものについて考えを巡らせるようになったかというと、ひとつにそれらがとても地味だから、という考えに行き着く。地味、かつ誰しもが非常にどうでもいいとしか言えないものに対して、我々が何らかのアプローチをあえてすることは、彼らの恥ずかしくくすぐったい表情を見ることができるからだ。雑草も思うだろう、まさか理科の実験などという言わば彼らにとっては舞台に立つ準備を滞りなくできてしまうオフィシャルなタイミングではなく、いわゆる家でポテチを食べながらソファーで寝ころびテレビを見て屁をこく姿を見られるとは、と。しかも、植物学者でも理科の授業中の学生でもない人間がそのようなことをするとは夢にも思わないだろう。

 それはいつものように、雑草の茎の線を数えだしたときのことだ。彼らは例のごとく完全に気を抜いており、ちょうど今まさに屁をこかんとする状況だったのだったのだろう。尻がピクりと動き、すぐさまにソファーから寝返りを打ったように私の方に向き直った。そうして明らかに強がった上ずった声で「え、どうしたの」と言った。私は内心呆れてそれ以上茎にある線を数えるのを止めてしまった。このような単細胞の雑草野郎に構っている自分という存在が馬鹿らしく思え、雑草を思いっきりコンクリートに投げつけた。雑草はその軽さゆえに空気中を舞い、私が思ってもみなかった明後日の方角へと落ちて行く。舞い落ちる雑草を背に私はくるりと向きを変えその場から立ち去った。そして思った。もう止めよう。雑草の茎の部分にある線を数えるのは、と。我々の人生において、雑草の茎にある線を数えるよりも、もっと大事な何かが必ず存在しているからだ。

 私が雑草の茎にある線を数えているこの間にも、多くの人類がその命の終わりを迎え、また産声をあげている。私たちはこれまで果たして、雑草の茎にある線を数えることで我々と友人との会話という草原に大輪の花が咲き乱れることなどあっただろうか。いや、そんなことはなかったはずだ。雑草の茎にある線の話しで盛り上がった事例があったとすれば、いかにして盛り上がったかということを雑草関連の学会に提出すべきである。雑草の茎の線を数える話など、会話に花を咲かすことなどまったくとして無く、同じような雑草を増やすだけである。雑草が生い茂った会話というのはすなわち、

「服を脱いであの木の幹に背中を激しくこすり付けたら血が出るでしょうね」
「そうですかね」
「だと、思うんですよね」
「血、ですか」
「はい、血です」
「血は、あの、赤いですよね」
「そうなんです、あれは赤いんですよね」

というような、一体お互いに何をしたいのかも分らなければ何も得るものがない意味の無い掛け合いが延々と続くような会話であり、その雑草の中で見つけられるものと言えば、野ぐそくらいの呆れたものでしかない。