きょうのできごと

ともだちになってください

海のむこうの町

 そのとき、工事現場が作る雲がぼくの心を覆った。これまであった何かが消えて、新しい何かが生まれる。それはこの世でまかり通っている、いわゆる世の常と言える類のことなのかもしれない。けれどそこには、新しいものへの喜びと同じ量の、失われていくものたちの嘆きがある。それは、ぼくの心を暗く、そしてときに雨を降らす。その根底には消えていく自分への恐れがあるのかもしれない。古い建物を跡形もなく壊し、新しい木材を使い家を建てる。それは、いつしか自分も古い建物のように、この世にいた事がまるで嘘だったかのように消え去っていくのかもしれない、とぼくに思わせる。考えるに、昔はそのように思わなかったことからすると、どうやらぼくにも死がそこまで迫って来ているのかもしれない。つまり、ある程度の歳も重ねて来ているからこそ、そのように思うのだろう。

 では永遠に発展し続ける何かがこの世界にあるとして、ぼくはそのような存在に憧れているということなのだろうか。けれど永遠ということを当たり前のものとして生きてこなかったぼくには、そのような存在としてあり続けることへの実感も、ましてや今のところ永遠に生きる自信もない。では、永遠の存在ではない今の私たちという肉体に必ずつきまとう、恐れや悲しみ、それらを受け入れて生きていく以外に術はないのか。しかし、恐れや悲しみという感情は、頭でいくら分かったように思ったとしても、身体がこれまでの知見と経験からか反応してしまう。

 そのようなことを考えながら工事現場の前。私はいつもであれば立ち止まるはずのない草むらに立っている。犬がその身体を小刻みに震わせながら、足に力を入れ、その態勢を整えた。私は犬の首輪から伸びる紐に携わっている袋を一枚取り出すと、袋の入り口を快適に開くために、親指と人指し指にハッと温かい空気を吹きかける。

 人間には、冷たい空気を出す能力と、温かい空気を出す能力が同時に備わっている。さも当たり前のことなのだが、よくよく考えると、秋も始まり少し空気がひんやりしだした頃のちょっとした施設の、ちょっとしたウォーターサーバー、そのウォーターサーバーには冷水機能だけでなく、温水機能が備わっていることに気づき至極得した気分になる、そんなお得感を感じざるを得ない。我々の体内には赤色と青色のスイッチのようなものがついており、冷たい空気のときは青色、温かい空気のときは赤色のスイッチが体内で押されているように思えてくる。

 気づくと幾ばくかの、かりんとうのような糞が無造作に草むらに転がっていた。糞を袋で掴み取ろうとするや否や、犬がまだ先ほどの態勢で下半身を震わせていることに気づく。危ないところだった。ここで糞を取っていようものなら、それこそとんでもないことになる。それは、第二の糞を取る際、第一の糞をすでに採取してしまっていたがために、再利用する形で袋越しに第一の糞の柔らかみを感じながら第二の糞を採取する必要が出てくるからだ。

 言っておくが、二つ目の袋を使うことは、資源消費の観点から好ましくないため、可能な限り一連の糞につき、一枚の袋でのみその全糞を回収するということを私は自分に課している。