きょうのできごと

ともだちになってください

神をさがして

 私が神の気配の存在に気づいたのはこの町に来てからのことだった。それは、この町には常々何かが足りないと思っていたことに始まる。初めは単なる慣れであり、馴染みがないためにこの場所には常に違和感がつきまとうのだろうとたかをくくっていた。しかし数年の歳月が流れた今、私はその何かが足りないような違和感というのは、神の気配の無さに集約される、ということが分かってきた。

 ここで言う神の気配というのは、過去という想像のし得ない場所から続く自分では完全には説明できない何か、である。私の故郷向けに具体的に例を挙げるのであれば仏閣や慰霊碑などはその一つだと言える。すなわち、例えばその仏閣や慰霊碑などのようなものは、この町にはない。ただし、それに近しいものはあると言えばある。しかし、そこに私は歴史を感じることができない。例えば教会などがそれに当たるが、それらの建物はおそらく近年建てられたであろう佇まいであり、古き趣ある佇まいが感じられないのだ。ただそれは、もしかすると私がある特定の形式を持つ建物に対して歴史や神の気配を感じることができないだけで、ここに長く住む人々は私が故郷の仏閣に対して思うような、いわゆる神の気配を感じることができるのかもしれない。

 ただ、これまで幾人かのこの町に生まれたときから住む知人にそのような質問をしたことがある。その際、私が故郷にいたときに感じていた神の気配に似たような何かを彼らが持っているとは到底思うことはできなかった。それは私の妻を持ってすると、それ以上のことが言える。彼女はこれまでに私の故郷に幾度か訪れたことがある。そこで先ほどのような問いを投げかけると、私の故郷を訪れていた際に感じていた気配、私の言葉でいうところの神の気配のようなものは、私の故郷の方では数多く感じることがあったが、彼女が生まれ育ったこの場所ではそこまで感じることはなかったと言うのだ。それはすなわち、人によって感覚は異なっていたとしても、神の気配の絶対量はこの町において少ない、とこれまでの私のリサーチからそう言わざるを得ない。

 そのように、少なくとも私が感じてしまう神の気配の欠如は、時に私を孤独にさせる。まるでこの町のすべてが、素敵で幸せな景色が描かれてはいる薄っぺらい壁紙を張ってできた仮初めの世界に思えてくる。

 そんなとき、新たに生じた疑問がある。それは、私が知らぬまに信じてきた神の気配、人間または自分を超えた何かは、人間によって作られた何か、私の故郷で言うところの仏閣や慰霊碑などからしか感じられないのか、ということだった。むしろ、神の気配を感じるための媒体としての仏閣や慰霊碑が、私の故郷には多いというだけで、今私がいるこの場所にも同じ時間と歴史が備わっている。そう考えると、過去という想像のし得ない場所から続く自分では完全に説明できない何かを感じるためのヒントが、この場所にはあまりにも少ないのではないのだろうかと思い始めた。

 そのような観点から言うのであれば、私が今現在こうして犬の糞が完全に出来切るのを待っているこの場所にも、そのヒントが隠されていると言っても過言ではない。私は当たりを見回す。人の気配はしない。残念ながら神の気配も感じることはない。ただ、冷たい風が吹く。深い緑の色をした芝生では、赤色の落ち葉が揺れ動いていた。犬も最終段階とばかりに、その身体を揺らしていた。


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 今回もなぜか犬がうんこをするシーンで終わりになってしまいました。いっこうに進みません。あと「神の気配」とタイプする際、毎回「髪の毛杯」という謎の大会が催されそうになっていたことをここに報告します。