深い層を流れる孤独

 自分ん中にはおっきくわけて二人の自分がおる。一人は日本語話すんやけどもう一人は違う。んで普通の生活んときは、日本語全然使わんから基本的にめっちゃ日本語欲しとるなあて自分でも日々思うんやわ。

 初めはそうでもなかってん。だってこっちの現地の言葉使うことで精一杯やったし。やけどそれが特に問題なく「まあ流暢になってきたなあ」というのも思わんくらいに流暢になったら「あれこれ自分じゃないやん。くそつまらんただの寡黙な東洋人やん」とか思うことによくよく気づくことがめっちゃある。

 それの最たるやつってのが笑いに関して。こっちに来てから、まあ会話をリードできん、よう人を笑わせん人間になり下がってしまったなあと思う。そんなこんなで毎度パーティー終わりに「自分クソおもんないやつやわ。なんねんこれ」とか思う。

 そう。こっちはパーティーなるものが多い。要はまあ、ただの家飲みというか集まりねんけど、集まる人とか内装とか催しが西洋的な感じするから「これ、あれやん。いわゆるパーテーやん」て思ってしまうんやと思う。

 やから自分正直あんましこっちのパーティー今んところそんな好きじゃないんやわ。誘われれば行くけど純粋な楽しみっつうよりも「挑戦」とか「鍛錬」とか「耐え忍ぶ」みたいなテーマとか「今日は何回笑わせたか」とか「いかに寂しさを感じんように立ち振る舞えたか」とかそういうテーマが強めんなる。まあゆうてもこれからこっちの言葉然りお笑いに慣れたらもっと面白く感じられるようになるんやと思うけど。

 うーんなんかちゃうわ。今んとこ。この日記、なんか思っとったんと違う。もっとこうなんか初めは孤独に関してもっと真剣に書きたかってん。要はそういうパーティーに行くと孤独を感じるっていう。でも実際こうやって書いとっったらそこまで孤独じゃないかも、って思ったからどんどん孤独から離れて行ってしまったんやと思う。

 ただ少なくとも、がいこくに暮らすっていうのはなんらかの孤独の値が高い傾向にあるのは間違いないと思う。ただ、留学とか単身赴任とか一時的なもんであれば、ゆくゆくは母国に戻れるとかいう未来があるわけで、そういった状況では深い部分を流れる孤独っていうんはあるにはあるんやけど、一過性のものとして考えればトータルではそんなに大きくないと思う。そもそもそこに夢や目的がある限り、通常はそれが孤独を覆い隠してくれる。

 やけど未来に母国へ戻る約束なんかないタイプのがいこく暮らしっていうのは、浦島太郎が急に名作に躍り出る。これは間違いない。だれにも確認したことないがたぶんそうやと思う。少なくとも自分はそうで、これまで気にもとめなかったそのおとぎ話がこれほどにも身につまされる名作になろうとは思いもせんかった。それも変に暮らしが安定したというか落ち着いたときというか、そういうときになって、急に深い層を流れる孤独の流れ具合がとんでもなくなる。それはこの日々の延長線上に自分の未来がただ呆然とあって、すべての過去に交わらず自分が完全な別のなにかになるんじゃなかろうかと思ってしまうからかもしれない。