きょうのできごと

ともだちになってください

環境少女とシナモンロール

 新年が明けた。朝食べたのは雑煮でもおせちでもなく焼き立てのシナモンロールだった。お義母さんが私たちのために朝食を用意してくれていて、それを美味しく食べた。

 でも、まるで新年が明けたような気がしなかった。それを唯一感じられる場所があるとすればインターネットで、そこにある日本のニュースやSNSの知り合いの投稿から新年が明けたということを感じることができる。

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 日本の新年という劇薬に慣れてしまっている私は、それ無くして新年というものがここにあるということを感じられなくなってしまっている。また、それは同時に「新年」というものが社会によって作られており「新年」と言われている現在と「新年以前」になにか大きな違いがあるというわけでもないのだ。よくよく考えれば新年というのは、私たちの祖先がお楽しみのために作ったある基準の一つに過ぎない。

 しかしそう言ったある基準があることで、私たちはもともとあったお楽しみの上に、自分ながらの現代風お楽しみを追加することで、カスタマイズされた自分ながらのお楽しみを味わうことができる。それが新年の目標だったり、新しい自分で心機一転だったり、新年における様々なイベントだったりする。人はそんなふうにお楽しみを重ねて文化を育て、どんどんと心地よく楽になっていく。

 私たちはそのようなお楽しみを人間として大いに楽しむべきだと思う。ただし、お楽しみを重ねた果てにあるのは人間以外のすべてが蔑ろにされた世界。ゆえに人間と現在の状態の地球環境の共存は不可能であり、それは我々が今思う素晴らしき自然がどの時期にどのように崩れていくのかという違いでしかない。

 環境少女の出現を逆説的に見るのであれば、彼女が優れていたということよりも、何をどうしたらいいかわからないし、あえて声を上げるまでもないけどやっぱり心のどこかで環境問題についてなにかが引っかかる人ががこの世界に思ったよりもたくさんいたからだと思う。我々はそれに同調する声を上げることはできる。ただ同時に個々でどのような思想を持ち、また行動をしているのか、日常を見直すことが必要ではないかと思う。

 日本人の性格や思考は他の国の文化よりも共存に向いている。だから冗談抜きで、他国の人はもっと日本人に学ぶべきだし、私たちももっと主張してもいい。技術革新で環境問題解決を目指すなら話しは別だが。

 なぜ新年一発目の日記の内容が環境問題の話しになったかはわからない。シナモンロールを食べたことしか伝えられなかったが、もしかすると私の知らない私の今年のテーマがこの環境どうのこうのというところにあるのかもしれない。