きょうのできごと

ともだちになってください

呪いと映画

 私はあまり映画を見ない。それは情報のリズムや密度が映画側で決められているからだ。そういうところが少し不気味だ。同じように私たちが影響を及ぼすことができない不気味なものとして音楽が挙げられるが、割く時間の違いと視覚を奪われないからかあまり気にはならない。しかし、どちらも私たちがコントロールできない分、無意識に私たちを特定の嗜好へと押し変えていくのではないかと思う。

 小説や漫画、ゲーム、また現実世界は、それらの速さや密度に、いくぶんか私たちが影響を及ぼすことができる余地がある。それらと違い、一定時間、画面に集中し見聞きしなければいけない映画は、一種の洗脳のような気がしてならない。

 その日、私は壁に設置したばかりのテレビでなにかを見てみようと思い立ち、ディズニーの映画を見ていた。物語も終盤に差し掛かる頃、私はすっかり映画の世界の住人と化し、登場人物たちへの共感で溢れていた。そしてついに気持ちが高ぶった私の目には、その世界で起こる悲しみと憎しみへの苛立ちによって、熱いなにかがこみ上げていた。

 映画という自分が受け手としてしか介在できないものに身を委ねた私は、挙げ句、あちらの思うがままに感情を弄ばれてしまっていたのだ。それは、その世界感に身を委ねた結果であり、まるで洗脳のような状態だった。辛い時間の多い片思いの恋にも同じようなことが言える。時として弄ばれる私たちの心は、どうしようもできない現実をただ遠くから見つめることしかできない。

 私はあまり映画を見ない。しかし、そうやって自分に呪いをかけるのは容易い。私が私にかけている呪いのうちの一つに「映画など見ない自分」というものがあるのだろう。

 呪いは私たちが気づかないうちに私たちを取り囲んでいる。呪いには、自分で自分のことを決めつけているという特徴があり、それは一見正しく見える様々な理由によって守られている。それは私たちをその場に留め、私たちの可能性を閉ざす。

 私たちにかかっている呪いを解けるのは、王子様でも魔法使いでもなく、私たち自身しかいない。私たちを呪うものはなにか。それは、この社会において、たびたび正しさや素晴らしさという隠れ蓑に覆われている。