日記(仮)

定期的に続けられたらタイトル考えます

愛されて愛する週末

 遠くで換気扇が音を立てている。

 なにかが作られているニオイに反応するわたしの頭はずいぶんとそれを肯定的に捉えたんだけど、おなかの方はそうはいかないといった具合にすっかり腰を落としてあぐらをかいてしまっている。

 じゅうたんの上には乱雑に転がるやわらかいボールがいくつかとまぶしい赤色のスポーツカー、プラスチックでできた小さなゴルフクラブ、うつぶせで苦しそうに顔を地面に突っ伏している熊のぬいぐるみ。

 ソファーに深く腰を落としながら、わたしは両足でじゅうたんの毛並みを感じていた。靴下をはいているんだからじゅうたんの毛並みの心地よさなんてわからないはずなのに、それをわかった気になっているのはたぶん思い出がわたしの感覚をごまかしているんだと思う。

 天気予報が言うように今夜、雪が降るんだろうか。
 ブラインドの隙間から見える紺色の空は、屋内からは見ることのできない小さな雨を降らせている、はず。
 ケータイが言う、この予報が真実ならね。

 そんな静寂にうつつを抜かしていたのもつかのま、うう、という小さな泣き声が聞こえ少しばかり経つと、あっという間にけたたましい独演会が始まる。ぐずりだした小さなそれは、わんわん泣いてだれかれかまわずになにかを伝えようとしている。

 わたしも、こんなふうだったのかもしれない。

 数十年前のその日、たぶんわたしもこんなふうに、だれかになにかを伝えようとしていた。そして、そんなわたしを抱きかかえただれかは、わたしの小さな身体をゆらゆらと揺らしつづけた。わたしが泣きわめくしかなかったころ、そのときもきっとこんなふうにとても温かかった。

 だからわたしたちも、この子たちがいつかそう思えるといいなと思う。


 週末の家族ディナーでの一幕でした。赤ちゃんといるときに思ったことは、わたしもその昔、おそらく同じようにだれかにあやされたり抱かれたりしていたということです。自分を育ててくれたであろうだれかへの感謝を知っているから、自分がされたであろうことをお返しする気持ちで赤ちゃんやこどもたちにとって前向きに接することができるという側面もあると思いました。それは、愛されてきたことを土台にしてだれかを愛するという方法なのかもしれません。