きょうのできごと

ともだちになってください

寂しい音と雪の向こう

 朝、起きてすぐに窓のブラインドを開けると、そこには早朝の紺色の光に照らされた雪が辺り一面に広がっていた。それは、今シーズン初の雪だった。

 緯度が高く一見寒そうな地域だとしても、気流が暖かければ雪はそこまで降らず代わりに雨が降る。そんなこともあって、冬に入ってからずいぶん経ったにもかかわらず、雪はこれっぽっちも降ることなくこれまでずっと雨が降り続けていた。つまり降り続けていた雨が気流の影響を受けなかったとしたら、それらはすべて雪だったのかもしれないとも言える。

「雪が降ってうれしいのは子どもだけ」と、自分がこどもの頃に聞いたからかもしれない。そんな大人になるものかと抗い続けて今に至ったのが功を奏し、私はまだ雪のことをなんとか愛している。それに、雪の日がステキなのは白銀の世界に慣れていない私たちにとって、いろんなことが少しだけ特別になるからだと思う。

 雪に覆われた世界を見ている私たちは、同じく雪が降った場所にいる他の人々とこの限られた非日常を共有している。そんなふうに考えると、見知らぬ大勢のだれかとぐっと距離が近くなったような気がする。雪を見つめた向こう側には、きっと同じようにして雪を見つめているだれかがいるのだ。だから私は、雪を見ているだけでなんだか少しだけうれしくなる。

 家を出るとき、私は必ず「いってきます」と犬に声をかける。犬はそれに対して時にはソファーで横になりながら、時には四つ足でその場に立ち尽くしながら、私を寂しそうにじっと見つめる。最近になってやっと、動物ながら彼女には寂しさと似たような感情があるということを信じられるようになった。なぜなら、私が玄関から家を出るときにだけ、彼女は立ち止まりただじっと私を見つめる。

 犬には「いってきます」という言葉の意味はわかりようがない。だから「いってきます」という音は彼女にとっては、ただ単にとても寂しい音でしかない。本来「いってきます」は「行って来ます」なので「出て行っても、必ずまたすぐに帰ってくるよ」という意味になる。でも、彼女はその意味を知るよしもないのだ。だから「いってきます」が寂しくならないように、私は心の中で「絶対帰ってくるからな」とまるで戦地に赴くかのように念じたくなる。