きょうのできごと

ともだちになってください

まるで恋のようだと思った。

 記憶は思うよりも速く、どこかに消えていく。今日もそうだった。書こうと思っていたある瞬間の光景とそのときの感情が、とても印象深かったことから、ある程度の時間を経たとしても、自分には必ず思い出せるだろうと信じていた。しかし今になって、その内容がまるで思い出せない。改めて思い出そうとしてみた結果分かったことは、もしかすると下記のようなことだったかもしれない、ということだった。

 私はそのとき道を歩いていて、皮膚が凍りつくような空気の中、オレンジ色の陽の光が照りつけていた。ふいに、自分の身体は実は自分ではないのだ、という思いに駆られた。自分は実は小さな小人で、その小人が私の身体の頭の部分に入って、目と名付けられた空洞から外を見ている。だから先ほどから自分が入っているこの身体が揺れ動くことが気になってしょうがないのだ。

 ふと我に返り思ったのは、たしかに今まであまり思ったことはなかったが、歩くと身体は上下に揺れる。ただし、そこで私たちの視線が上下に揺れないのは、私たちの目、もしくは脳が、デジタルカメラの手ぶれ補正のような機能を備えているからかもしれないと思った。もしくは、私たちは無意識に二つの目の焦点を合わせ対象物を捉える。眼球はその捉えた何かを、身体の揺れに関係なく掴んで離さないからかもしれない。

 ううん。これまで書いてきたものは、私が書こうと思っていた瞬間とは、どこか違う。たしかにこんなふうなことだったようにも思う。けれども、もっとイカした何かだったように思う。ただ同時に、記憶は都合よく改ざんされる、という話も聞く。実は、当初の私は先ほど書いたようなことを、まさにとても印象深い瞬間だと思っていた。それが時間を経て、そのとき思った素晴らしい瞬間を超える瞬間として、期待値が膨れ上がってしまっていたのかもしれない。過去とても良い瞬間だと思っていたにも関わらず、今そのことを振り返ると、まるでそういったことはなく、いったいぜんたいあの感情はなんだったんだろう、という類のものなのかもしれない。

 それは、まるで恋のようだと思った。

 と。上の一文を書いていた私は、どうやら危なくポエム行きの電車に乗ろうとしていたようだ。とても危ないところだった。ポエム行きの電車はいつも急行、というか新幹線並みの駅の止まらなさ。乗ったが最後、終着駅までずっとメランコリーにならざるを得ない、とても危ないところだった。 

 つまり、ここまでの文章で今日何が言いたいかというと、書こうと思っていたことがあったにも関わらず、忘れた。ということだ。そう。おっしゃる通り。早くそう言え。という声が聞こえて来そうだが、まったくその通りだ。私もそう思う。

 懺悔の意味を込めて、今日は何かしら別のことを述べたいと思う。そのような意味で、あえて、強いて言うならば、今日は友人夫婦の家族親戚の集まりがあり参加した。友人夫婦と言っても、元々は妻の友人である。また、なぜ友人家族の親戚の集まりに完全なる部外者である我々が参加するのかと聞かれれば、それは妻が昔からそうしていたからに他ならない。よくわからないが、なにか、そうなのだ。この世界にはよくわからないことがたくさんある。

 ちなみに、今日はここ数日の投稿のラストを常に飾ってきた、犬のうんこについての文章を書くことができなかった。とても残念ではあるが、生きとし生けるものにすべて終わりがあるように、平成も今年で終わるように、犬のうんこについても終わりがあるのだ。なので、金輪際私が犬のうんこの話でラストを飾ることは無いだろうと思う。ただ、一つ言えることとして、今日の犬のうんこは、いつもより増して柔らかいものであったことをここに報告したいと思う。