きょうのできごと

ともだちになってください

そばにいてくれたひと

世間一般で言われる幸せだったり、社会での評価を取りつくろうことはできる。だけどぼくらは自分を生きているんだろうか。こどもの頃にそばにいてくれた人たちは、そのときのぼくらが持っていた大きな時間に、漠然とした希望を感じていた。今に立つぼくらは、それに答えているだろうか

朝起きて

起きても空が曇っていたせいかもしれない。できればこのままずっとベッドにいたい。なんて思っていた。だけどあらためて考えてみると、それはどこかおかしい。ぼくらはなぜこの世界に生を受けているんだろうか。ベッドの中でうずうずするために生まれてきていないことだけはたしかだ。だからベッドの中でうずうずしているなんて、きっとなにかが間違っている。ぼくらはきっと「やったー朝だ!」なんていうふうに言って布団なんて蹴りあげてたちあがるか、布団のあたたかさのなかで沈むようにまた眠りにつくべきなんだと思う

シャワーのくらやみのなか

朝。シャワーのくらやみのなか。まるで夢を見出したみたいに、どこからともなく思いもしなかったものが頭の中に浮かんでくる。その日ふと思い出したのは、かつて出会った友人たちのことだった。彼らとはオンラインゲームを通して出会った。夜な夜なゲームの世界で出会っていた彼らには、最後には現実の世界でも会うことができてしまった。一人は当時、ぼくが住んでいた国を半分くらい南に下った場所にいた。同い年の男の子だった。電車とヒッチハイクを乗り継いで会いに行ったのが懐かしい。ヒップホップが好きだった彼は、ぼくにラップを教えてくれた。もう一人はぼくが住んでいた場所に会いに来てくれた。ぼくより少し年下の、かわいい女の子だった。ぼくの好きなタイプの漫画を、おすすめだって言ってもって来てくれた。二人とも魅力的な人だった。だけど彼らとは現実世界で一度会い、それ以降一度も会うことはなかった。今思えば、会うということが、オンラインで出会ってしまったぼくらのゴールだったのかもしれない。オンラインゲームのことも彼らのことも、いつのまにか忘れてしまっていた。気づけばぼくは、人生をずいぶんと進めてしまっている。シャワーを止めたくなかった

かわいくない大人

こどものときはかわいいかわいいって言われてそれにうれしくて笑って答えていたのに、それを大人になるとどこかに置きざりにしなくちゃいけないってのは不思議だ。かわいいって言われなくなったぼくらには、だれが代わりにかわいいって言ってくれるんだろうか。思うに最後は神様が、とってもかわいいって言ってくれるんだと思う。死や時間にすら抗うことのできない、ちっぽけでかわいそうでかわいい、神様はそう思ってくれるんだと思う

きらめきの練習

 興味のあるオンラインセミナーに参加するためにお金を払ってしまった。というのも、そんなもので得られるものなんてあるわけないとどこかで思っていたからだ。昔、都会にいたときはよく行っていたはずのセミナー。そこから離れてからは、住む土地住む土地が以前住んでいた都会に比べると開催も疎らなせいか、それとも新しい土地に馴染むのに必死だったためか、そういったものにまるで参加しなくなってしまっていた。あの頃からもう、十年経ってしまう。そういえばあの頃は本もずいぶんとたくさん読んでいた気がする。そう考えると今のぼくとは大きく異なっているようにも思う。昔の自分がよくて今の自分がいい、なんて一概に言うつもりはないけれど、一瞬の心のきらめきを損得勘定や慣れてしまった日常のパターンで、否定しまうのは間違っている。もしかしてまったくの無駄足になってしまうかもしれない。だけどなんとなく興味が湧いたものへと瞬時に傾くことは、きらめくなにかを見つける感度を高めていくんだと思う。自分の中のきらめきを見つけた時点でぼくらは自分たちが思うよりもずっとわくわくしていて、それが仮にまったくの見当違いだったとしても、それは一歩前に出なかった自分よりもずっと正しいのだと思う