日記(仮)

定期的に続けられたらタイトル考えます

ともだち

 友だちがおるってこと。ぼくはめっちゃうれしい。
 昨日と今日、友だちとひさしぶりに電話してなんかうれしかった。
 そんでめっちゃ感謝しとる。友だちのあんたらが思う以上に、ぼくはめっちゃありがとうって思っとるんやからなって言いたい。
 いつも話が終わった後に思う。ああ、今回もありがとうの気持ち伝えるん忘れた。ぼくがあいつにしてあげられること、いっしょに考えてあげれることなんかもっとあったんじゃないんかな。もっとそういうこと話せばよかったわ。って。
 でも友だちがおるなんて意識することはめったにない。なんかあいつとあいつは友だちやからなって思った時点で、なんかそれはぼくが思う友だちとは違う気がしてしまう。
 友だちっていうもんは、言葉にするような仰々しいもんじゃなくて、思うになんかそこにおるものっていう方が適しとるんじゃないかと思う。なんとなくいつの間にか、意識することなくなんかをどうでもいいこと話したりする。そういうのが友だちなんかもしれんなあと思う。
 やけどそういうのに当てはまらん、不思議な友だちもおったりする。そんなどうでもいいことばかり話す友だちじゃなくて、むしろなんかもっと深い話。そういうのができる人ってのは、もしかしたら世界の見方が似通っとるんかもしれん。普通、深い話になればなるほどにそこで共感を得ることってのは難しくなる。でも、その友だちはそういった共感を得られる確率が高い。それってやっぱり、根底にあるもんや興味が似通っとるんやと思う。
 たぶんなんでか仲良くならんなった知り合いの人やったり、疎遠になっていった人は全員が全員そういうわけじゃないとは思うけど、世界の見方や興味、深い考えへの共感が運悪く折り合わなかったんかもしれん。
 大人になればなるほど友だちができんくなるっていうんは本当かもしれん。やけど、ぼくらがぼくらであり続けて、それを発信していくことで、きっとまだ見ぬだれかと友だちになれるんじゃないかって思う。
 友だちがみんな元気に、それぞれの今を前向きに生きているように、ぼくもこれからヨーグルトを食べるという今を生きようと思う。

愛されて愛する週末

 遠くで換気扇が音を立てている。

 なにかが作られているニオイに反応するわたしの頭はずいぶんとそれを肯定的に捉えたんだけど、おなかの方はそうはいかないといった具合にすっかり腰を落としてあぐらをかいてしまっている。

 じゅうたんの上には乱雑に転がるやわらかいボールがいくつかとまぶしい赤色のスポーツカー、プラスチックでできた小さなゴルフクラブ、うつぶせで苦しそうに顔を地面に突っ伏している熊のぬいぐるみ。

 ソファーに深く腰を落としながら、わたしは両足でじゅうたんの毛並みを感じていた。靴下をはいているんだからじゅうたんの毛並みの心地よさなんてわからないはずなのに、それをわかった気になっているのはたぶん思い出がわたしの感覚をごまかしているんだと思う。

 天気予報が言うように今夜、雪が降るんだろうか。
 ブラインドの隙間から見える紺色の空は、屋内からは見ることのできない小さな雨を降らせている、はず。
 ケータイが言う、この予報が真実ならね。

 そんな静寂にうつつを抜かしていたのもつかのま、うう、という小さな泣き声が聞こえ少しばかり経つと、あっという間にけたたましい独演会が始まる。ぐずりだした小さなそれは、わんわん泣いてだれかれかまわずになにかを伝えようとしている。

 わたしも、こんなふうだったのかもしれない。

 数十年前のその日、たぶんわたしもこんなふうに、だれかになにかを伝えようとしていた。そして、そんなわたしを抱きかかえただれかは、わたしの小さな身体をゆらゆらと揺らしつづけた。わたしが泣きわめくしかなかったころ、そのときもきっとこんなふうにとても温かかった。

 だからわたしたちも、この子たちがいつかそう思えるといいなと思う。


 週末の家族ディナーでの一幕でした。赤ちゃんといるときに思ったことは、わたしもその昔、おそらく同じようにだれかにあやされたり抱かれたりしていたということです。自分を育ててくれたであろうだれかへの感謝を知っているから、自分がされたであろうことをお返しする気持ちで赤ちゃんやこどもたちにとって前向きに接することができるという側面もあると思いました。それは、愛されてきたことを土台にしてだれかを愛するという方法なのかもしれません。

歯医者と雨

 雨。月一の歯医者で矯正を確認してもらいました。

 M字になっている奥歯に山部分と谷部分があるとして、その上の奥歯の山の頭頂部分が下の奥歯の谷底中央側へと動いているのか確認したい、といったような細かくて伝わりにくそうなことを話すとき、ちゃんと伝えれば伝わるにも関わらず自然と焦ってしまい、文法を丁寧に考えず大雑把に感覚で伝えようとしている自分に気づいて、駄目だこりゃとなって途中でしゃべる気力が失せるのをなんとかしたいと思いました。

 NOTEという場所で心機一転改めて書き始め、一週間以上が経ちました。

日記と走ること

 走ろうと思い玄関から飛び出すと、ちかごろの天気からすればかなり貴重な晴れ間が広がっていました。私はたいてい朝に走ることにしています。特に理由はありませんが、朝お風呂に入る前に汗を流したいのです。ちょっと前までは毎日走っていましたが、ちかごろは天気のせいもあったりして毎日というよりはたまに走る程度です。

 ここで日記を始めて一ヶ月半が過ぎました。当初、しばらく止めていた書くということを改めて習慣づけたかったのが書き始めた大きな理由でした。少し前からあえてこちらに力を注ぐのを止め、今は別の媒体に時間を使っています。

 この日記は、特別なお役立ち情報もなければ鋭利な思想もない散文なので、自分もなぜ毎日書いているか今ではよくわからなくなってきましたが、家族が見ているので近況を伝えたいと思い書き続けています。また、人生というのはいやおうにも波があるものですので、急になにかを言いたくなるときが来るかもしれません。それになにかを書いていくうちに、自分が思いもしなかったいろいろに気づくこともあるので、なるべく書いていこうと思っています。

今年の目標の一つ

 ストレッチをすることに日課にしている。ただ、ずっと左太ももの裏が痛む。去年の目標の一つに開脚前屈で胸を着けるというものがあった。ただ、その太ももの裏がどうにも伸びる前に痛くなってしまいストレッチを休止せざるを得なくなったことが多々あった。今年の目標の一つは、変わらず胸をつける、だが痛まないようにさらにゆっくり伸ばしていくことと、それを続けること、そして痛まない箇所の柔軟性をとにかく上げていくことに注力する。

 今日は、ソファーで居眠りをしていたらある人に夢で怒られた。