きょうのできごと

ともだちになってください

居間を燃やしていました

 居間と二階の部屋を燃やしていた。そのときは両親が出かけていて、ぼくは友だちといっしょに居間にいた。どこからか集めた山のような紙だったりを、みんなして燃やしていた。いつもあたりまえに、まるで永遠にあるように思っていた居間が燃えていく。恐ろしく、だけどどこか爽快に感じた。たぶん、楽しかった。はっきりとはわからないけれど、この感情はたしかに楽しさととても似ているようだった。そんな夢だった。なぜそんな夢を見たのかはわからない。春の訪れによって布団が暑苦しく感じたからかもしれない。

 KindleでDrコトー診療所という漫画を読んでいる。医療系漫画を読んでいると自分の身体の中で臓器が動いていて、それが悪くなると死んでしまったりする、ということを改めて考えたりする。近頃、無駄な時間を過ごしてしまうことが多いように思う。理想を言えば、生きている時間がすべて、遠くや未来のだれかにつながるみたいに生きていたいと思う。結局ぼくらは人間で、人と関わることで幸せを見出している。すべての時間の先にずっと遠く、そこにはだれかがいて、そんなだれかのために今を過ごせたらいいなと思う。なにをしていたっていいけれど、そのなにかの先に自分なりのだれかを思っていたいと思う。

できんこと

 友だちの子どもは両手両足が動かせんくて、意思疎通もおそらく泣くぐらいしかできん。歳は六歳やっていうんに未だにまるで赤ちゃんみたい。

 今日ひさしぶりに会う機会があって、彼は敷かれた毛布で寝そべっとった。いつ以来なんかはわからん。やけどぼくはそんとき昔いっしょにキャンプに行ったことを思い出して、だからかもしれんけどぼくは彼と話せないながらも心ん中ではなんかが通じ合っとる気がしてならんかった。

 彼を見とるとぼくは生きるってことの存在を感じてしまう。彼は普通の同い年の人間よりもできることが少ない。やからそのぶん、基本的に生きるということがむき出しになっとるんじゃないかと思う。そこにいて生きることの凄さ、純度の高い生とはなにかってことをぼくらに伝えとるような気がする。彼がなんもできんなんて思わん。たしかに周りの人の手はかかるかもしれん。やけどそこで生き続ける、ただそれだけでぼくらは学ぶことがあるんじゃないかって思う。日常で起こる人間関係の悩みとかそんなもん差し置いて、ただそこで生きることについて、彼は常に周りのみんなに問いかけとるんじゃないかと思う。

ワクチン

 ワクチンのお知らせが来たから申し込みをした。日本の友だちとそんなふうに国ごとに異なるペースで接種が広がっとるワクチンのこと話しとって、そんで日本の若者に対しての接種開始予定見たら未定て書いてあった。パンデミックの度合いや人々の受け取り方もあるし、ワクチン接種が早い遅いでその自治体が良いとか悪いと言えんと思うけど、オリンピックやるんやったら名目として他国より接種率が高かったら安心材料の一つになったんになあと思う。やけどもワクチン。申し込みしたんはいいけどよくよく考えるとワクチンあんま意味ないんじゃないんかなて思う。ぼくが接種する予定のファイザー社のワクチンは感染を抑えるタイプのものではなく、感染しても症状が出ないようにするものらしい。つまり仮にワクチンを接種したとして、症状は抑えられるが感染し感染させてしまう可能性は変わらない。自分の年齢が重症化する危険性が低いということを鑑みると急遽作られた感の否めないワクチンを焦って接種することはただ周りの流れに身を任せているに過ぎず、そこにどんな落とし穴が待ち構えているのかは今のところ知る由はない。

 カナダは屋内で家族以外と集まることが禁止されとる。やけど一定の人数以下で屋外で集まるんは大丈夫ってことで、最近知人が外でサプライズウエディングシャワーをやった。んでそんときに知人のうちの一人の女声が食べ過ぎで吐き気を催したらしいんやけど、ぼくはその吐いた彼女は妊娠しとるんじゃないんかってつい瞬間的に思ってしまった。女性+吐く=妊娠。といった公式が自分の中にあったことを知って少し驚いた。ぼくはここ何年かで、間近で流産やら妊娠やら出産やらをこれでもかというほど見てきとるから、そんなふうに思えてならんかったんやと思う。我ながら気味悪いことに、今や一対の男女から一人の人間が作られることが、昔よりもずっと容易にあたりまえに思える。精子卵子っていう別の人を生み出すことができる要素がぼくらからは定期的に排出されていて、それは潜在能力として今この瞬間も体内でそのときを待っている。そんなふうに思うと、自分の中には自分だけがいるってわけではなく、小さな別のなにかが潜んどって、それが自分とは別の方向へと進もうとしとるように思えてくる。

ともだち

 友だちがおるってこと。ぼくはめっちゃうれしい。
 昨日と今日、友だちとひさしぶりに電話してなんかうれしかった。
 そんでめっちゃ感謝しとる。友だちのあんたらが思う以上に、ぼくはめっちゃありがとうって思っとるんやからなって言いたい。
 いつも話が終わった後に思う。ああ、今回もありがとうの気持ち伝えるん忘れた。ぼくがあいつにしてあげられること、いっしょに考えてあげれることなんかもっとあったんじゃないんかな。もっとそういうこと話せばよかったわ。って。
 でも友だちがおるなんて意識することはめったにない。なんかあいつとあいつは友だちやからなって思った時点で、なんかそれはぼくが思う友だちとは違う気がしてしまう。
 友だちっていうもんは、言葉にするような仰々しいもんじゃなくて、思うになんかそこにおるものっていう方が適しとるんじゃないかと思う。なんとなくいつの間にか、意識することなくなんかをどうでもいいこと話したりする。そういうのが友だちなんかもしれんなあと思う。
 やけどそういうのに当てはまらん、不思議な友だちもおったりする。そんなどうでもいいことばかり話す友だちじゃなくて、むしろなんかもっと深い話。そういうのができる人ってのは、もしかしたら世界の見方が似通っとるんかもしれん。普通、深い話になればなるほどにそこで共感を得ることってのは難しくなる。でも、その友だちはそういった共感を得られる確率が高い。それってやっぱり、根底にあるもんや興味が似通っとるんやと思う。
 たぶんなんでか仲良くならんなった知り合いの人やったり、疎遠になっていった人は全員が全員そういうわけじゃないとは思うけど、世界の見方や興味、深い考えへの共感が運悪く折り合わなかったんかもしれん。
 大人になればなるほど友だちができんくなるっていうんは本当かもしれん。やけど、ぼくらがぼくらであり続けて、それを発信していくことで、きっとまだ見ぬだれかと友だちになれるんじゃないかって思う。
 友だちがみんな元気に、それぞれの今を前向きに生きているように、ぼくもこれからヨーグルトを食べるという今を生きようと思う。

愛されて愛する週末

 遠くで換気扇が音を立てている。

 なにかが作られているニオイに反応するわたしの頭はずいぶんとそれを肯定的に捉えたんだけど、おなかの方はそうはいかないといった具合にすっかり腰を落としてあぐらをかいてしまっている。

 じゅうたんの上には乱雑に転がるやわらかいボールがいくつかとまぶしい赤色のスポーツカー、プラスチックでできた小さなゴルフクラブ、うつぶせで苦しそうに顔を地面に突っ伏している熊のぬいぐるみ。

 ソファーに深く腰を落としながら、わたしは両足でじゅうたんの毛並みを感じていた。靴下をはいているんだからじゅうたんの毛並みの心地よさなんてわからないはずなのに、それをわかった気になっているのはたぶん思い出がわたしの感覚をごまかしているんだと思う。

 天気予報が言うように今夜、雪が降るんだろうか。
 ブラインドの隙間から見える紺色の空は、屋内からは見ることのできない小さな雨を降らせている、はず。
 ケータイが言う、この予報が真実ならね。

 そんな静寂にうつつを抜かしていたのもつかのま、うう、という小さな泣き声が聞こえ少しばかり経つと、あっという間にけたたましい独演会が始まる。ぐずりだした小さなそれは、わんわん泣いてだれかれかまわずになにかを伝えようとしている。

 わたしも、こんなふうだったのかもしれない。

 数十年前のその日、たぶんわたしもこんなふうに、だれかになにかを伝えようとしていた。そして、そんなわたしを抱きかかえただれかは、わたしの小さな身体をゆらゆらと揺らしつづけた。わたしが泣きわめくしかなかったころ、そのときもきっとこんなふうにとても温かかった。

 だからわたしたちも、この子たちがいつかそう思えるといいなと思う。


 週末の家族ディナーでの一幕でした。赤ちゃんといるときに思ったことは、わたしもその昔、おそらく同じようにだれかにあやされたり抱かれたりしていたということです。自分を育ててくれたであろうだれかへの感謝を知っているから、自分がされたであろうことをお返しする気持ちで赤ちゃんやこどもたちにとって前向きに接することができるという側面もあると思いました。それは、愛されてきたことを土台にしてだれかを愛するという方法なのかもしれません。