きょうのできごと

ともだちになってください

粉を主食として生きている人々

 細かく切り刻ざまれたパスタが生えたみたいなカーペットの上であぐらかいて座っとってん。思うんやけど、もしこれが本当にパスタやったとしたらめちゃ味の悪いパスタであることは疑いようがないわ。こんな短く切り刻まれたパスタなんてフォークで食べにくいことこの上ないもん。この上なさ過ぎて仮にパスタ以外が完璧やったとしても、フォークで食べる際の食べにくさでイラッとして、さらに切り刻んで粉々にしてしまうかもしれんわ。そしたら粉チーズと見分けつかんくなって「何食べとるん」てなるわ。「わしは粉食べとるんかい」て。そったらだれかが「あの国では粉が主食である」とか言い出して、ついには「粉をなめるな馬鹿野郎」とか言い出すくらいなぜか粉側の立場に立ちだす。「いやいや、わたしは粉のことなめてませんよ」と、本当は思っとらんのやけどあえてその場をなだめようとして言うと「おい。粉は食うか舐めるかで言ったら舐めるもんだろ」とかトンチの効いたことをなぜか返されるもんやから「それは逆に粉が主食の国の人々をトンチのダシに使っていて失礼じゃないんですか」と言うと「なにを言っているのですか」とあらためて真剣な面持ちで「あなたは実際に粉を主食として生きている人々に会ったことがあるって言うんですか」てまじまじと聞いてくる。「いえ。ないですけど」と返すと「わたし、実際に現地に住んでたんですから。向こうの人々、トンチ好きですから。トンチのためならダシに使ってくれてもけっこうけっこう。と言うはずですから」と言われてしまい、この話の流れと雰囲気からして、この人この話題に関してはちょいこだわりが強めやからここから言い返しても泥仕合の様相やしこりゃこちらからはもう何も言えませんわ。となる。

 ジョークやトンチなんかはふつう会話を盛り上げるためのもののはずなんに、このこだわり強めの人のせいでなんか盛り下がってしまっとるわ思たら、こんだけ粉を主食として生きとる人々のことについて話しとるいうんもあって、なんとなくそういう人々に対して申し訳ない気持ちんなってくる。

 そういえば、今日の夜ご飯はミートソースのかかったパスタだった。この切り刻まれたパスタが生えたみたいなカーペットは、その夜ご飯の無意識が引き起こした思想なのかもしれない。そのミートソースが、私の目に映る紐状のなにかをすべてパスタだったなにかに移し替えてしまう呪いをかけたために、そういうふうに思ってしまったのかもしれない。

 往々にして我々は、どのような食べ物を踏んだとしても、あるていど気色が悪いと感じる生き物だ。そんな中この今踏んでいるカーペットを、パスタでできたカーペットだと思い込むと、実際はパスタで作られていないにも関わらずどこかしら少し不安な面持ちでたたずむこととなる。それは私の足裏が覚えている過去の記憶によるものとも言える。

 昔、私は素足で落ちていたパスタを踏んだことがある。そのとき踏んだ場所は足の指の付け根だった。柔らかかったパスタは小さな指の付け根のシワの隙間にねじ入り、私の皮膚と皮膚を粘着させる。そのとき私は「わしは小人の世界のネズミ捕りの罠をものともしない巨人か」と思った。と同時にすごく地味に気持ちが悪いしねちゃねちゃするのですごく嫌だし明日も早いし眠いしもう金輪際踏みたくないと思ったので、もし自分が今後、小人になる機会が訪れたとしたらネズミ捕りの罠を仕掛けることによって巨人に精神的なダメージを与えることで村を守るという悲壮たる決意をした。

サンタとの写真

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 けっきょく変態になるのが嫌だったので写真は撮りませんでした。絵をさらっとかけるようになりたいと思っていたので漫画を始めることにしました。続くかなあ…続けばいいなあ…。文化背景が圧倒的に異なる私のミセスを軸に、なにかをお伝えしていけたらいいなと思っています。
 

会話泥棒

 最近のことだ。私はひさしぶりにだれしもが一度は経験があるであろう、あの例の席に座ってしまったのだった。それは何を隠そう、自分はまったくとして当事者で無いにも関わらず、まるで自分のことのように胸がときめき踊り出す、そう、初デートカップルの隣の席である。

 私がそれを認識するのには数分程度の時間と、対象者から気づかれぬためのさも傾聴などしていないであろう振る舞い、店内や店員には実はまったくとして興味が無いにも関わらず、あたかも興味があるように見せかけた一連の動作の中における流れるような視線での対象の確認、これまで培って来たありとあらゆる盗み聞きの技術を総動員させる必要があった。

 同席している盗み聞き仲間とは、目の動きだけで確認をとる。我々のこれまでの盗み聞き経験をもってすれば、目の動きのみで対象者がいるということを把握することは容易だ。

 仲間内で対象者把握後、実際に盗む段階となる。ちなみに今回使用した盗みの技は「ストレッチ盗み」である。例えば店内を無言で見回し、対象を把握し続けるのには限界がある。実際にやってみると分かることだが、無言で店内を見回すという行為は、店員もしくは勘のいい客に怪しい人物であると思われてしまうリスクを兼ね備えている。ましてや、会話を盗む対象者が勘のいい客だったともなれば、一気に会話に警戒網が張られてしまうことになる。つまりはその時点で任務は終了という、我々プロの会話泥棒としてあってはならない結末を迎えてしまう。理想としては、辺りを無言で見回すのは十五分に一度くらいに留めておきたいものだ。そこで今回我々が採用した、この「ストレッチ盗み」を使用すれば、椅子に座っている状況下において、身体を反らすストレッチをするだけで自由な視線を得ることができる。また、この「ストレッチ盗み」は単独でも複数時でも可能な方法であり、単独任務が発生した際にはとても重宝されている技の一つである。

 また、今日はもう一つ基本となる技を紹介しておこう。その技は「興味あるふう盗み」と言う。これはチームでの任務でのみ可能な技になる。この盗み技は、まったく興味の無い店内の何かが、ターゲットとなる人物の近くや背後などにあった場合、そのまったく興味がない何かにさも興味があるようにすることでターゲットの方向を向く自然な流れを作るという盗み技である。しかし、これには言わずもがな若干のチームワークが重要である。例えば「あの壺すごいねえ」と言われた場合、「ああ。あれはマツモトタイゼンの壺の系譜じゃなかろうか」などと、有りそうで無い固有名詞を使うことで、話を縦横無尽に広げ続けることが必要となってくる。

 また、我々は眼鏡を好む。言わずもがなだが、横向き時に視線を流す際、眼鏡のフレームが壁となってターゲットがこちらの視線を把握することを妨げる効果がある。それでは、サングラスも有効なアイテムなのかと、たまに聞かれることがあるが、文化的環境的背景や、ある特定の状況下にて、屋内でサングラスをかける必然性が保たれていないと、対象者を含め周囲から異様な人物であるという見方をされてしまう。そうなると、辺りに緊張感が生まれてしまうため、上手く盗めたと思ってもいかんせん内容に乏しく、ありきたりな情報しか得られないことが多い。

 ちなみに今回の会話泥棒で我々は、マッチングアプリで初お見合い、そしてデートをしていたらしいアジア系女子と白人男性の初々しい会話という財宝を手に入れることができたのであった。

 タイ料理屋を後にするやいなや、仮そめのストレッチや会話を楽しんでいた妻と私が、せきを切ったようにして今回の任務の報告と確認、今後の彼らについての分析をしたのは言うまでもない。恋愛ゴシップの力たるや恐るべしである。

まるで恋のようだと思った。

 記憶は思うよりも速く、どこかに消えていく。今日もそうだった。書こうと思っていたある瞬間の光景とそのときの感情が、とても印象深かったことから、ある程度の時間を経たとしても、自分には必ず思い出せるだろうと信じていた。しかし今になって、その内容がまるで思い出せない。改めて思い出そうとしてみた結果分かったことは、もしかすると下記のようなことだったかもしれない、ということだった。

 私はそのとき道を歩いていて、皮膚が凍りつくような空気の中、オレンジ色の陽の光が照りつけていた。ふいに、自分の身体は実は自分ではないのだ、という思いに駆られた。自分は実は小さな小人で、その小人が私の身体の頭の部分に入って、目と名付けられた空洞から外を見ている。だから先ほどから自分が入っているこの身体が揺れ動くことが気になってしょうがないのだ。

 ふと我に返り思ったのは、たしかに今まであまり思ったことはなかったが、歩くと身体は上下に揺れる。ただし、そこで私たちの視線が上下に揺れないのは、私たちの目、もしくは脳が、デジタルカメラの手ぶれ補正のような機能を備えているからかもしれないと思った。もしくは、私たちは無意識に二つの目の焦点を合わせ対象物を捉える。眼球はその捉えた何かを、身体の揺れに関係なく掴んで離さないからかもしれない。

 ううん。これまで書いてきたものは、私が書こうと思っていた瞬間とは、どこか違う。たしかにこんなふうなことだったようにも思う。けれども、もっとイカした何かだったように思う。ただ同時に、記憶は都合よく改ざんされる、という話も聞く。実は、当初の私は先ほど書いたようなことを、まさにとても印象深い瞬間だと思っていた。それが時間を経て、そのとき思った素晴らしい瞬間を超える瞬間として、期待値が膨れ上がってしまっていたのかもしれない。過去とても良い瞬間だと思っていたにも関わらず、今そのことを振り返ると、まるでそういったことはなく、いったいぜんたいあの感情はなんだったんだろう、という類のものなのかもしれない。

 それは、まるで恋のようだと思った。

 と。上の一文を書いていた私は、どうやら危なくポエム行きの電車に乗ろうとしていたようだ。とても危ないところだった。ポエム行きの電車はいつも急行、というか新幹線並みの駅の止まらなさ。乗ったが最後、終着駅までずっとメランコリーにならざるを得ない、とても危ないところだった。 

 つまり、ここまでの文章で今日何が言いたいかというと、書こうと思っていたことがあったにも関わらず、忘れた。ということだ。そう。おっしゃる通り。早くそう言え。という声が聞こえて来そうだが、まったくその通りだ。私もそう思う。

 懺悔の意味を込めて、今日は何かしら別のことを述べたいと思う。そのような意味で、あえて、強いて言うならば、今日は友人夫婦の家族親戚の集まりがあり参加した。友人夫婦と言っても、元々は妻の友人である。また、なぜ友人家族の親戚の集まりに完全なる部外者である我々が参加するのかと聞かれれば、それは妻が昔からそうしていたからに他ならない。よくわからないが、なにか、そうなのだ。この世界にはよくわからないことがたくさんある。

 ちなみに、今日はここ数日の投稿のラストを常に飾ってきた、犬のうんこについての文章を書くことができなかった。とても残念ではあるが、生きとし生けるものにすべて終わりがあるように、平成も今年で終わるように、犬のうんこについても終わりがあるのだ。なので、金輪際私が犬のうんこの話でラストを飾ることは無いだろうと思う。ただ、一つ言えることとして、今日の犬のうんこは、いつもより増して柔らかいものであったことをここに報告したいと思う。