きょうのできごと

ともだちになってください

宮沢賢治と豆腐

 ちかごろは、雪のことしか話すことがないくらいに日記を書く価値のない人間。それが今の私。他に言えることがあるとすれば、ちゃんと生きているということくらいになってしまう。ここ最近、あまりすごいことが起こらない。そのため、今日はあえてとても当たり前のことに立ち返ってみることにする。


 うちには、総料理長、そして料理長と料理長の助手の三人がいる。

 総料理長はとても背が低く四足歩行で生活をしている。基本的に、彼女が食事にケチをつけたり何かを言うということはない。ただし、たいていキッチンで食事を作っていると、キッチンから材料や料理がこぼれないかを常に心配している。というか、こぼれてくるものを狙っている。そうして総料理長は料理を近くで見守りつつ、時折つまみ食いをして味の善し悪しをみるのだ。

 食卓に並ぶメニューを決めるのは基本的に料理長。そしてなにを隠そう、私がその料理長の助手である。

 料理長の助手の仕事はというとその名の通り、料理長の指示のもとオーブンを温めたり、材料を切ったり混ぜたりと様々な下準備をし、また後片付けも行うとても過酷でハードな仕事だ。蟹工船だ。

 うちの料理長は、ビーガン料理を得意としている。だが、かといって彼女はビーガンではない。菜食主義という理想を掲げつつも、それをできる範囲で実行しようとしている現実主義者だ。

 最近、どうやら料理長は豆腐にはまっている。一週間前ぐらいのある日、料理長はキッチンで突然なにかを思いついたようにして

「わたし、豆腐好きだわ」

 と叫び、そのあと料理長の指示のもと四種類の豆腐料理を作った。

 私はこれまで、主に湯豆腐と冷奴という二種類で、豆腐を味わってきた。しかし、西洋という別文化に来たことで、豆腐はビーガン料理の中で別の輝きを放っていることに気づいた。

 ちなみに私ががいこくに行こうなどという考えが浮かぶずっと前、菜食主義とカナダが結びつき、同時にそれらの意味を少しだけ変えた瞬間があった。それは、カナダで菜食主義者が出てくる宮沢賢治の小説「ベジタリアン大祭」である。それまで読んだ賢治作品にはない雰囲気を感じていたそれが、自分の今と結びつくことに得も言えぬなにかを感じる。

雪かきと犬

 朝起きて犬を外に連れ出す。雪は思ったよりも積もっていて、それは30から40cmぐらいもあった。早朝ということもあって、だれかが歩いた形跡はまだなかった。

 犬と私は積もった雪に足を取られながらもなんとか道に出た。犬は頭がよく、リードを外しても歩道からは絶対に出ないし、用を足すときは必ず芝生でする。しかしこの日、歩道は前日までの除雪作業と人が歩いたことによって辛うじて歩けたが、芝生は雪で覆われていて入れそうになかった。犬はそれを悟ったのか、いつも用を足す場所の近くで我慢しきれなくなっておしっこをし始めた。私がリードを外すといつものようにトコトコと走り出し、うんちをする場所を探すと同時にそれを出す準備を始めた。

 しかし前述したように今日は歩道にある芝生が雪に覆われており、どこが芝生なのかわからないようだった。結局、犬はどうやら芝生の場所をなんとなく知っていたようで、覆われた雪の上を歩きだし、すぐにうんちをする踏ん張り体勢に入った。雪の中に手足がずっぽりと入ってしまっていてとても冷たそうだった。

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 その後、近所の除雪作業を始めた。共有の道のような場所をすべて除雪した。自分の場所ではない共有の部分まで除雪をしたのは、これまで何人かの近隣に住む人々がその部分を除雪してくれたことがあったので、今回は自分がその番だと思ったのだ。

 除雪したのは何年ぶりだろう。こどもの頃はよく除雪していた。めんどくさかったような気もするけど、今思い返せば楽しかった気もする。

 雪は今週末まで降るらしい。けれど、そこから気温がまた上がるため、雨が続いていく。雪が雨に変わり、その雨が雪を消していくのがいつも寂しい。

布団と宇宙の中心

 あと何十分か経てば私の心とは裏腹に、身体はなにかに操られるようにしてここから離れていく。

 火のついたガスコンロの上には、私の心で満たされた鍋が置かれている。すでに、その底から小さな空砲がぷくぷくと浮かび上がってきていて、それは少し前まではとても静かだったのに、嘘みたい。やっぱりいつものようにだんだんと騒がしくなってる。

 これはほとんどの私の朝に起こるできごとで、沸騰していく心がこのまま吹きこぼれないよう、私はしぶしぶに火のついたガスコンロから離れる。

 さっきから眠気眼に何度か見ている薄暗い部屋の中にあるすべての光景は、とっくのとうに見尽くされていて、何千何万と見たからか、それらは私の朝の目の一部と言ってもいいくらいの光景となっていた。

 毎朝、私たちの宇宙の中心は、必ずといっていいほど布団の中にある。それは寒さとともに宇宙の中心が明確になるからだ。

 最近読んだ漫画に地球球体説が出てきた。今ではすっかり当たり前だけれど、その説というのは地球という球体の中心に核というものがあって、それを中心にひっぱられるみたいにして重力があるってことだった。布団も地球もそうなのだから、この宇宙にあるすべて、物質だけに限らず、人間の感情やなんかにも重力があるのかもしれない。

 宇宙の中心に気づくと同時に時折、右肘から先端までの感覚がないことがある。そんなときは左手で右腕を布団の中に引き寄せ、右腕が回復するのを待つことになる。あれはいったいななのだろうと思う。怖い。だれかを戦争に送り出す夢とか見たときに万歳三唱して、両腕が布団の外に出たがために両腕の感覚がなくなったらどうすればいいんだろうと思う。

 日本にいたときは、そんなふうにして、朝、いろいろ思うことはありましたが、こちらではそもそも暖房がついているからか、朝に対してちょっぴり寒いと思うくらいでなんのドラマもありません。コタツもヒーターの灯油も入れなくていいけど、そういう嫌なことも含めて冬のような気がしますので、物足りなさもあります。

料理と漫画

 この日も少しばかり雪が降った。でも綿毛のように宙をふわふわと舞うだけでまるで迫力がない。そのぶん少し甘くてちょっぴり美味しそうな気がした。けれど味はたぶんしない。というか絶対にしない。なんて。決めつけてしまうのはなんだかつまらない。そんなつまらないことばかりしてるから、地球がどんどん小さくなるんだと思う。でも、たぶん無味の方が結局いいんだと思う。だって甘かったりしたら、蟻だらけになりそうだし糖尿病患者が少しだけ増える。雪は週末まで降るらしい。そう天気予報が言っていた。ちかごろ空を見る機会が減ったのは、地面にある雪に目が行ってしまうからだ。

 ひさしぶりに漫画を読んだ。最近ずっと読んでいなかったのもあったからか、やっぱり漫画はおもしろいと思った。海外では、漫画よりもアニメの方が人気がある。それはより真っ当に流通しているアニメの方が消費されやすいからだ。

 アニメと漫画について、海外にいて一つ学んだことがある。例えばとてもおもしろい漫画があって、それが元となったアニメがあるとする。一つにそのアニメの原作はそもそも漫画であること。二つ目に、漫画のおもしろさという人気があってアニメが人気になっているということ。これを、海外のアニメを見る人に伝え、漫画がいかに素晴らしいものかを伝えたとする。だが、結局は海外のアニメ好きは漫画をあまり見ない。アニメの作画よりも凝った作画だったとしても、彼らは漫画ではなくアニメを選ぶ。もしかすると、擬音など絵と同化している文字があったりする不利な点はあるかもしれないけど、漫画よりもアニメが勝っている。同じ話しなら漫画の方が絶対におもしろいのに。

 奥さんが一週間ぶんのお弁当とごはんを作ってくれた。感謝。私も、できる限りアシスタントとして手伝った。

認識を埋めるものと義理恥

 昨日見ていたドラマ。あんまりぐっとこなかったけど、ニュースなんかにもなってたりしたもんだから続きを見た。このドラマ、初めは日本のNetflixが制作したのかと思っていたらBBCNetflixの制作だということだった。監督は外国人。どうりで。いろいろと合点が行く。

 やはり見ていると、どうしても違和感がところどころで浮かび上がる。それが伏線なのであればいいが、おそらく伏線なんかじゃない。ずっと回収されない伏線は、ただの違和感だ。「なぜ」という違和感が引っかかり、それが明かされないままに話しが進むのは少し我慢がいる。

「家族はこっちにいるの」

 ドラマを見ていて、こちらに住む人から何回かされたことのある質問が頭に浮かんだ。移民の国、カナダにおいて家族がまるごとが移住するのはよくあることなのかもしれない。だから、たまにそういった質問をされることがある。ただ、私の知る限り、そんな日本人はいない。家族ごと移民する人々には、やはりそれなりにわけがあって、だから元いる国から離れ移住する。けれど、日本は比較的恵まれているからそういう人はあまりいない。

 話しを戻すと、ドラマ内ではときおり外国人が思う「ジャパニーズ」が現れる。だれしもが他人をあるイメージで信じていて、それをその他人に確認することなく「そうだよね」と言い放つ。それはだれしもに起こりうることで悪意はないが「おしい。なんかおしいけど微妙にそこ違うんだよね」と思うことになる。

 国という文化の違いによってそういう微妙なズレが生まれるのであれば、私たちが完全に理解していると信じている家族や身近なだれかとの間にも、とても些細で気づかないようなズレが実はあって、でもそれは信頼だとか血縁だとか優しさだとか愛だとか契約とかがあるおかげで、とんでもなく大きな問題にならないで済んでいるのかもしれない。