きょうのできごと

ともだちになってください

宇宙と親指

 現代人の親指は昔の人に比べて少しだけ短いのだという。なんて。そんな研究結果があるのかもしれないくらいに、私たちは昔よりも利き手の親指の先を日々すり減らしている。

 最近、親指が痛い。携帯画面を触るたびに痺れたように親指が痛む。だから最近は左手で操作するようにしている。私はある理由から、普通の右利きの人よりも左手でなにかを操作するのに慣れている。だから左手で操作するのがあまり苦にはならない。それでも気づけば右手の親指で画面を触り痛みが走る。

 そんな親指の痛みを抱えながら思ったことがある。

 私は、環境問題を解決するのは結局は技術革新だと思っている。人が人である以上、欲望は止まらないし、経済や各々の目の前の活動を優先していくことは目に見えている。であるならば技術革新によって環境問題を将来的に解決する方が、欲望から抜け出すことができない人間という個にとってとても健康的だと思う。

 その中で、私がぼんやりと考えた地球温暖化の防ぎ方がある。それは太陽の周りを回る地球の公転軌道を少しだけ広くするというものである。そうすれば、太陽から離れるため温暖化は防げる。これは一見、本当にバカらしいアイデアだが、可能性があるのであれば将来このような方法も選択肢に入ってくるかもしれないと思ったのだ。

 そんなこんなで、人生で初めて「なぜ地球は自転公転するのか」「またそれはなぜ回り出したのか」「太陽と地球の距離はどのようにして決まったのか」などということを調べてみた。すると、なんとすでに地球は太陽からどんどんと離れていっているらしい。だとすれば気温は寒くなるのかと思いきや、それは誤差の範疇らしく私たちには感じ取れないほどだそうな。

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遠ざかる雪と洗剤

 雨が雪を打ちのめす今週、寒さは引き潮のように遠ざかっていく。

 いったん変わった雨が次に雪に変わるのはいつなんだろう。雪から雨に変わったのは温度と言われる暖かさを示す指標が、零度という物質の状態変化が起こる境界を超えたということだ。なんだか、私たちはいつのまにかさまざまなものごとを数値化しているように思う。それはとっても便利なのだけど、同時にいったいそれがなぜその数値であるかということを私たちから遠ざけ、この世界をよりわかりやすく均一にしてしまう。温度なんて尺度を知らないほうが、私たちは私たちの身体を含めた自然をもっと身近に、体感をもって知れるのかもしれないとたまに思う。

 太陽からの距離が少しだけ遠い、この季節における雪と雨の境界線。今の私の浅はかな知識じゃ、それをつかさどるものがいったい何なのかなんてわかりようがない。もしかしたらそれは私が冷凍庫を開けて、これから何を作って食べようかなと考えている時間に関係しているかもしれないし、はたまた私が昼間の太陽の下、ジャンプをしたことでほんの少しだけ太陽から地球が遠くなってしまったからとも考えられる。もしそうだとしたら、私と逆側にいる人たちのジャンプの回数が足りないんだけど、地球温暖化を考えるなら、私たちは太陽が自分たちの真上にあるときに跳べるだけ跳んで、地球を少しだけ太陽から遠ざけるべきだと思う。

 このまま雨が降り続いて春が来るんだとしたら素直に喜べない。私の中でまだ冬が足りない。冬将軍にはがんばってほしい。自分で言っておいてあれだけど、よくよく考えると、なんだよ将軍って、と思う。今調べてみたけど、厳しい冬の様子を擬人化した様なんだって。もう絶対、冬将軍は冬だけに鍋の季節ってこともあって鍋奉行だと思うし、そんな人とあんまし鍋を囲みたくないし、なんか冬が急にむさ暑苦しくなってくるようだし、冬なのに矛盾しまくりで、もうかんべんしてって思う。

 台所の食器用洗剤がなくなった。


甥と姪と学校

 予想通り。駐車場に停められている車は疎らだった。

 ハンドルを切った私は直感的にいつも停めている角にある場所ではなく、その角の隣の場所に車を停める。それは両サイドに広がったスペースが、車のドアを開けるときの安心感につながるからだ。

 いつもであればほとんどの場所に車が停められていて、なぜかその角の場所だけが空いていることが多い。けれどこの日は雪が積もっていることもあって、外に出る人も少なかったんだと思う。

 学校には雪が降ったためか、生徒がほとんどいなかった。先週も雪だったこともあって、これで同じような光景が二週連続で繰り返されたということになる。

 私が週末に通っている学校は、移民のための学校なので費用が発生しない。また、これは人にもよるが、授業もなければ宿題もない。週のある一定の時間数通うという条件が満たすことだけが生徒へと課せられる条件になる。ただし、その条件もなにか理由があるのであれば無視してよいという風潮がある。つまり、休みたい放題、遅刻し放題ということだ。そのような環境下で学ぶには、かなりその人の自主性が必要となってくる。私も長く通っているわけではないのでわからないが、おそらくは生徒の入れ代わりがとても早いのではないかと思う。ましてや、移民のための学校ということもあり、通う人々の理由の多くは日常生活を不自由なくこなせるようになるか、もしくは仕事を得るため、学校に入学するためにこの場所で学んでいる。中には市民権を得るためや、その他の理由で学習を続けたいからという人もいる。その中でも、日常生活のためや仕事を得るために来ている人々の場合、日常生活において個人的な満足感を得てしまったり、なんとなく仕事が決まってしまった場合、学校へ来る意味を見失ってしまうため、急に通わなくなってしまうのかもしれないと思った。 

 夜は家族の集まりがあった。近頃の集まりは、主に甥と姪を中心に進行される。甥は二歳児、姪は二ヶ月だ。「うっざ!」が40%「なぜ?」が40%「かわいい…」が20%くらい。そのような3つの思考が私の頭の中でぐるぐると回る。

 今回、甥に仕掛けた遊びは、トンネルが通過したときのワクワクさを生み出す「トンネル通過」いないいないバーからの「変顔」これはおれのものだと言うことでしょうもないものを価値あるものに見せかけそれを取り合う「オレのものだ」の3つだった。

スモーキーマウンテンと思ったこと

 アイデアが浮かぶときは頭の中がからっぽのときが多い。というのも、それは頭が過去や未来のことに捕らわれてなくて、感覚器が持っている五感へと意識が集中しているからだ。五感に意識が集中すると、人はもっとずっと今に在ることができる。瞑想はもちろんのこと、ヨガやストレッチ、運転、シャワーや湯船につかるなんてのも五感へと意識が向かうからアイデアが浮かびやすい。

 そんな頭の中がからっぽになりやすいと言われる運転をしているときのこと。改めて思ったことがあるけど全然まとまらなかったので羅列しようと思う。

・一般的に自分の名前の下、インターネットで発信するほとんどはその人のポジティブな側面を魅せているということを知る必要がある。私たちは、それが彼らの研ぎに研ぎ澄ました一面であるという想像力を兼ね備えて、それらを消費すべきだ。最も良いのはSNSでプロモーションにまつわる仕事をしてみることだと思う。

・匿名性が保たれるインターネットや現実の小さなコミュニティでは、遠慮のない率直な意見が飛び交ったり、噂話に花を咲かしたり、だれかが自分から見て不幸せであるという事実から安心を得ようとする力が働く。人はゴシップをするとき、だれかのことを話しているようで、やはり自分のことを話している。話に出てくるだれかと自分を比較したとき、いかに自分がそのだれかよりはある一点において幸福であるかということを話している。

・陽の光がない場所に影はできないように、幸せを感じるにはなにが幸せでないかを知る必要がある。幸せでないことを知って初めて、幸せの意味を理解することができる。「幸せはなるものではなく、気づくものだ」とよく言われるが、それは幸せでないことを理解したあとに気づくものが、ひどく当たり前のことであることが多いからだ。

・宇宙は質量保存の法則の下、状態に変化が起こったとしても質量は変わらないという事実がある。仮にそれが質量のみならず、すべてのエネルギーに対して言えるのであれば、それは人の心にも同じような法則があるのかもしれない。

・昨晩、スモーキーバーレーというフィリピンにあるスラムのドキュメンタリーをなぜか見出したとき、そこで自分を突き動かした衝動は単純な興味ではなく、自分がある程度の幸せを得ているという実感を感じたかったということかもしれない。

宮沢賢治と豆腐

 ちかごろは、雪のことしか話すことがないくらいに日記を書く価値のない人間。それが今の私。他に言えることがあるとすれば、ちゃんと生きているということくらいになってしまう。ここ最近、あまりすごいことが起こらない。そのため、今日はあえてとても当たり前のことに立ち返ってみることにする。


 うちには、総料理長、そして料理長と料理長の助手の三人がいる。

 総料理長はとても背が低く四足歩行で生活をしている。基本的に、彼女が食事にケチをつけたり何かを言うということはない。ただし、たいていキッチンで食事を作っていると、キッチンから材料や料理がこぼれないかを常に心配している。というか、こぼれてくるものを狙っている。そうして総料理長は料理を近くで見守りつつ、時折つまみ食いをして味の善し悪しをみるのだ。

 食卓に並ぶメニューを決めるのは基本的に料理長。そしてなにを隠そう、私がその料理長の助手である。

 料理長の助手の仕事はというとその名の通り、料理長の指示のもとオーブンを温めたり、材料を切ったり混ぜたりと様々な下準備をし、また後片付けも行うとても過酷でハードな仕事だ。蟹工船だ。

 うちの料理長は、ビーガン料理を得意としている。だが、かといって彼女はビーガンではない。菜食主義という理想を掲げつつも、それをできる範囲で実行しようとしている現実主義者だ。

 最近、どうやら料理長は豆腐にはまっている。一週間前ぐらいのある日、料理長はキッチンで突然なにかを思いついたようにして

「わたし、豆腐好きだわ」

 と叫び、そのあと料理長の指示のもと四種類の豆腐料理を作った。

 私はこれまで、主に湯豆腐と冷奴という二種類で、豆腐を味わってきた。しかし、西洋という別文化に来たことで、豆腐はビーガン料理の中で別の輝きを放っていることに気づいた。

 ちなみに私ががいこくに行こうなどという考えが浮かぶずっと前、菜食主義とカナダが結びつき、同時にそれらの意味を少しだけ変えた瞬間があった。それは、カナダで菜食主義者が出てくる宮沢賢治の小説「ベジタリアン大祭」である。それまで読んだ賢治作品にはない雰囲気を感じていたそれが、自分の今と結びつくことに得も言えぬなにかを感じる。