苛苛と自然
先日のパーティーでスマートスピーカーを手に入れた。使ってみているが、これから社会にとって当たり前になるほどの利便性は感じなかった。使う側の慣れと違和感が減ることと、機器の使い勝手がさらに良くならなければ普段の生活ではあまり重要ではないだろうと思う。
帰りにスーパーで夜ご飯の材料を買う。仕事で嫌なことがあり、少し苛ついてしまった。起こるできごとに対して自分の反応を選べなかった。人間としてまだまだだなと感じる。
近頃、冬にも関わらずあまり寒いと思ったことがない。気温がそこまで低くないのか、防寒が徹底されているからかはわからないが、寒いと感じる瞬間は一日の中でほとんどないに等しい。
仮にこの寒いという感覚を、日常で起こる一つの小さな不幸せと捉えるならば、その小さな不幸せの回数をできる限り減らすことは、我々の人生をより心地よくする。
ただし一方で、人の心地よさを追求していくことは、私たちを自然から遠ざける。私の住んでいる地域は夏は心地よく、前述したように冬も日本に比べれば寒いという感覚に陥ることが少ない。冬は雨が多いと言う人もいるが、私の感覚では、私の故郷の方がずっと雨が多く、そして厳しく冷たい雨が降る。
つまり今私は、より人工的に心地よく、過去にいた場所よりも平坦な場所に存在している。寒さは防寒具や室内のシステムにより遮断され、暑さはおろか、雷も台風も地震も津波もほとんど存在しない。自然の驚異というものにさらされながら、そこに神や妖怪などの未知なるものを見出して来た日本人としての刺激中枢にある受容体のようなものを、私は完全に持て余してしまっているような気がしている。
かと言って、冬は薄着で夏は着込みに着込む。自ら何かに感電し、酒を飲みに飲んで世界をぐるぐる回し、海に飛び込む。そのようにあえて人工的に自然の驚異を演出することもできるが、もちろんそのようなことをしようとも思わない。